dash&bagel

ふり返れば眩しい

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今日はお休みの日だった。結果的に無理やりお休みになった日。

そういう休み方が後々負債にならないように気を配るのもまた病むことへの一歩のよう。

 

これからの絵の話を何人かにライン通話で聞いてもらって、雑談もした。

もしかしたら絵を描きたいのかもしれない、ずっと宗教や美術の勉強をしたかったのは、私の人生に必須なこと、必要不可欠な栄養素のようなものであって、やりたいこととは別枠である可能性が浮かんだことについて話した。

栄養が足りなくてもがいていたのかもしれない。

腹をくくって栄養を摂りながら、絵を描いていけば私は楽しく過ごせるかもしれなくて、それはやってみる価値があるし、やらなければ生きられない気がする。

今まで右往左往してきたのを持て余している。どう処理したものか。

きっと散々迷ったから、もうストレートな理由のある人生は私には与えられないんだろうけど、どうも整理整頓された生き方に憧れてしまう。

強さのようなものを感じ、それは美しいと思う。自分にないものはいつだって眩しい。目が眩んで、手を伸ばしたくなる。遠ければ遠いほど。

 

スマホひとつで遠くの友人と一瞬で話せることに救われている。

彼らの人生から見た私について教えてもらうと、少しづつ私の輪郭を知る気がする。

みんな私は大丈夫だという。私もそう思う。きっとそれはこんなふうに大丈夫だ、そうだねというやりとりが発生する状況に私が身を置くことができている、コミュニケーションをとっている、ということ自体への信頼があるからだろうな。

孤立しないこと、迷っても立ち止まらないこと、人に頼ること、迷うことを楽しんでいる節があることを忘れないで大切にしたいな。そう、この5年ほどのどこにも所属できなかった長い時間、全て私は楽しかった。辛かったけど。両方、本当に。

接客でどれほど疲れても、最後まで見る元気はなくとも細切れでも必ず毎日見た映画のことや、図書館のコーヒー、お客さんに嘘みたいに怒鳴られて泣いて店長に慰められたこと、先輩と夜まで合わないお釣りの計算をしたことが、私のつま先にいる気がする。

迷ったらきちんと止まって地図を見ればいいのに、と思う。

行動力のある迷子ってどこにも行けないだけだよ。でも私は地図が読めないんだよなあ。

つま先にいる思い出たちのこっちじゃない?という声に従ってここまできたけど、思いもよらないところにたどり着くもので、面白いなあと自分でも思ったりもする。コントロールできない分、そういうところを楽しまなきゃやってられない。

 

夕方、お米をといだ。水に触れて、ざくざくお米を押していると、心の余剰がともに流れ去って行く気がする。

以前、とても尊敬している方が、料理は創作の最初だ、ということを言っていた。そっくりその通りだと思う。そして、私は、食事を作ることは何かを手放させてくれる儀式のようだとも思う。悩み、まではいかなくとも、その手前のものたちを燃やして、流して作るような気がしている。

残った私はほんの少しさっぱりしている。そして寛容なのが、作ったものが残ることがないことだ。

今の私はほんのりさっぱりしている。ネチネチ反芻ばかりしているこんなやつには食べ物を作ることはもはや必須だ。