夜気
定期的に何かを書き留めたくなる。
その時期が来たので、しばらく今日あったことや気になったことを書いてみる。
きっと色々変化が重なり、忘れていくことに疲れているのだと思う。
こうして書き留めたからといって、そのままでいられることなんてないのだけど。
全てをとどめておけることは不可能だ、ということを、私はいくつになったら理解できるのだろう。水に絵の具を落として、1日眺めていた幼少期にその水が腐っていくのが耐え難かった。今でも花が枯れて黴びるのが不思議なままだ。
幼い頃から、ということは、もはやそういうものから私は細胞分裂してここまで来たのではないか、とか思って諦められないことへの理由にしてみたりする。
何を書こうか、というよりどう書こうかだけを決めて五年間続けることを目標にしようと思う。やりたいことをやる算段がようやくつきそうなので、それ関係について触れつつ、ぼちぼち書こう。
嘘をつかないこと。話せないことはごまかさず、静かにしていたらいいということを私はたまに忘れる。
毎日何かひとつ新しいことを調べたり読んだりすること。
誠実でありたい。私の好きなもの全てについて、きちんと言語化の手間をかけ、会いに行き、メンテナンスをして、勇気を出せる人間になりたい。
私は臆病だからいつもいろんなことを粗末にし、ヘラヘラして過ごしてしまうから、ここでは落ち着いた人間でいたい。
終わらない卒業制作と、近づく面接の対策で気ぜわしく、ぼんやりした1日だった。
今日は授業最後の日で、あとは卒制の提出とプレゼンを残すだけだ。目まぐるしかった二年間のなんて早いこと。
先生と話したのは、絵についてだった。これで公募とか出してみるといいよ、デザイナーとイラストレーターをしたらいい。面白い、と言ってもらって、私はそれが受け取れず、こんなので?!とか見せるほどのものですか、とかわめいた。先生は自信持て!と笑っていた。最後に、いや先生とやりとりするのをこれで終わりにする気は全くないのだけど、絵について触れてもらったのは嬉しかったのかもしれない。
続けていたら知り合いが増えていく、という話もした。続く、続ける。私が絵に留まるということ?たくさんのカットが積み重なって、それのどれかを目に止めてくれた人と出会うことを想像する。楽しいきっと。今使っている主な画材はiPadのアプリだけど、使い終わって重さを増したスケッチブックや、なかなか一番下にたどり着かないスクロールバーをイメージする。
重さ、距離、過ごした時間のことを思いながら絵を描くので、それが人生と重なるのはすごく自然なような気がする。
そのあと全てをいったん置いて、京都に用事で行ったのだけど、少し観光客が少なめだった。でも学生が多いので基本的な数はなかなか減らないから、まあまあ混んでいた。
四条のお土産物街を歩いた。去年から何度か歩くことになったこの通りのことを意識するようになっている。思い出が積もりつつある。
用事を済ませ、大阪へ帰る電車への階段を降りながらはっと、絵が描きたいなあと思った。そうだ、私は、先生が言ったことを目標に生きていこう、とヒールの響く音と一緒に腑に落ちた気がした。
この生き方を続けてみることは、少し可能性があって、バランスが取れる瞬間がくるのではないか?とほんのり思った。まだどういうことかはわからないけれど、描いてそれでどこかにいくことは、私の生き方の主軸になれるかもしれない。
犬の首輪の先のようなものがずっと欲しい。そこから離れられないどうしようもない中心のようなものが。離れる気すら失う、圧倒的な中心地。
それの有力な候補として、手間をかけてみるのは、ごく自然な選択のような気がしている。
制作と面接と、人と会う約束のある今週。
全部良い方向へ転ぶことを祈りつつ、どうなろうが私はなんとか大丈夫なんだろうなというよくわからない信頼、無謀をつつきまわす夜。